いま私が、もし18歳だったらー映画青年が時代を先取る映像の力を信じて広告代理店へ:山田哲也(株式会社名大社 代表取締役)

(写真は、2017年12月安城シティマラソン (大学時代のご学友と))

18歳までの私

私は、岐阜県の焼肉店を営む家に長男として生まれました。

実家は先祖代々続く農家。私の父親は7人兄弟の長男で戦争により父を亡くし、中学の頃から家族を支えていました。仕事大好き人間で、農業だけでなく、養豚、野菜苗の販売、しめ縄作りといろんな仕事を自分で作っていました。私が中学生の頃には焼肉屋も開業しました。今の言葉で言えば多角経営を行う個人事業家といえるでしょう。そんな家庭環境で育ったおかげで、家族はとても忙しく、休みは全くなかったと思います。そのため両親にどこかに遊びに連れて行ってもらった思い出がほとんどありません。友だちは旅行してるのに・・・。

そんな少年時代を過ごした影響で、将来はサラリーマンになろうと考えていました。サラリーマンであれば休みがしっかり取れて、子供を遊びに連れてくことができるから。そんな理由でした。まずは大学に行って、就職しようと・・・。

18歳、高校3年生の頃、実はあまりちゃんと進路については考えていなくて、なんとなく大学に進学することだけは決めていました。両親の希望は近場の大学ということだけで、数ある大学の中から、なんとなく幅広いというイメージがあった、経済学部を目指しました。

実は、中学生の頃から映画鑑賞が趣味で、漠然と将来は映画を作る仕事をしてみたという思いもあって、映画研究会がある大学!という思いは強くありましたね。京都方面の大学へ行きたかったのですが、両親の思いに反することはなく、愛知県内の大学への進学を決めました。

18歳から今まで

大学に入学すると、大好きな映画三昧のとアルバイトの日々。映画を鑑賞しては、お酒を飲みながら映画談義に花を咲かせて、仲間と自主制作の映画を作ってみたり、映画館でアルバイトもしていました。映画漬けの毎日でしたね。但し、お金がなかったのは事実。アルバイトも相当こなしていました。実家の焼肉屋も手伝っていましたし、イベント設営のアルバイトもしていました。

そんな生活の中でも、大学2年生の時には年間180本の映画を鑑賞していました。特に人間の葛藤を描くような作品に惹かれていましたが、青春映画も好きで大林宣彦監督の尾道3部作はとても感銘を受けた作品でした。

映画研究会では部長も任されていました。また、各大学の映画研究会で構成されるNUCCにも所属していました。主催したイベントには憧れの大林宣彦監督をゲストでお招きできて、とても嬉しかったことをよく覚えています。駅までの送迎係を買って出て、束の間の大林監督との時間を楽しませていただきましたね。とはいえ、何が話せた訳でもないのですが・・・同じ空間は貴重でした。

とにかく私の大学4年間は、映画が大きなウエイトを占めていたのは間違い無いですね。その中で、漠然と映画制作や映像制作に関わる仕事を志していました。本当は映画監督になりたいという夢もありましたが、それは難しいと早々に諦めました。

しかし、映画に関わる仕事はしたいという思いは強くあって、大手映画会社なんかも受験しました。最終面接まで行けたことは今でも自慢の一つですね。映像に関わる色々な企業を見て行くうちに、広告代理店の時代を先取るCM制作に興味を持ち、そこから株式会社名大社との出会いがありました。CMなどの映像制作に興味を持って入社しましたが、当初は営業部署で求人広告の販売や企画をしていました。

映像に直接触れる仕事ではなかったですが、仕事を覚え採用企画や企業展を担当するうちに、「これは企業にとってとても重要で大きな仕事だ。」と思い、やりがいみたいなものを感じていましたね。

新規開拓の営業で磨かれたものは多くって、失敗から学んだことは数知れずあります。役員陣の評価も頂き、当時最年少で役員にもならせていただきました。ですが、反発心なのか若気の至りなのか、1年後には役員降格となり、その時は会社を辞めようと真剣に考えていました。

そんな時に、あのリーマンショックが起きました、影響は凄まじくお客様は採用コストを削減していく、すると当然営業成績も悪化、社内の雰囲気も悪くなっていく。赤字が続き、名大社も最悪の状況に追い込まれました。

この窮地に、前社長が打ち出した対策が3つ。
・会社を解散する
・誰かが存続させるか
・会社を売却するか

とはいえ、見ず知らずの誰かに、ここまで大切に育てて来た会社を売るということは、前社長の本意ではありませんでした。「会社を解散させる」が、一番、合理的な考えでした。「名大社は無くなるのか・・・それも仕方ない・・・」そんな風に、諦めに近い気持ちが湧いていたのは事実です。

しかし、時間が経つにつれ、「お客様はどうなるのか、従業員たちはどうなるのか」そんな思いが駆け巡り、心配でなりませんでした。

随分悩んだ末に、周囲の後押しを受け「私が名大社の社長となる!」と決断をしました。
幸い、景気回復と社員の努力の甲斐もあり、業績も安定し現在に至ります。

そんな私の人生を振り返ってみると、重要なことにおいて途中で辞めることや逃げることはしてこなかったんですよね。

学校、部活動、アルバイト、仕事、ジョギング、30歳からつけ始めた日記、自分が決めた主要なものは辞めてないんです。大好きな映画も、もちろん継続中で毎月2作品を映画館でみると自分にノルマを課しているくらいです。

特にジョギングは自分と向き合うことだと思っていて、走るのは結構ハードで辛いんですが、でも「ここから逃げちゃいけない!」という思いを強く持っています。走るとき、戦う相手は自分だけ、そういう意味では良いスポーツだなと感じていますね。「ジョギングは仕事に行きていますか?」なんて時々聞かれますが。継続して来た趣味は、仕事に生きているかどうかよりも続けることが大事で、それが仕事に生きているはずだと、信じているところがありますね。

とにかく暇なのは嫌なんです。電車で何もしないのは勿体無い、ゆっくり歩くのも勿体無い。
年齢を重ねるごとに、勿体無いと感じていますね。何もない1日が欲しいなと思いつつも、何もないと不安にもなりますね。だから、いろいろなものを続けているのかもしれません。

今私が、もし18歳だったら

もっと外の世界を見ることをするべきだったと感じますね。

両親の反対もあり、自宅から大学に通いましたが、今思えばそこで機会を損失していたのかもしれません。東京が全てとは思いませんが、東京の大学に行くことも出会いや可能性を広げる一つの方法だったのではないかと思いますね。

とはいえ、地元の大学の映画研究会での経験や出会を通じて、映像に関する仕事という選択肢を持ち広告代理店に就職をしたので良かったとは思っているんですが、世界や視野を広げる努力はもっと出来たと思いますね。

今は、情報量も多いですし、キャリアや働き方についての考え方も変わってきているので、将来をどう設計するかということを考えることが必要ですよね。そのためなら遠方の大学に行くために、親を説得するという方法もあるんじゃ無いかと思うんです。

お金についての考え方もなかったので、奨学金が良いとか悪いとかではなく、自立して京都や東京に行くということも考えられたのではないかと思いますね。

今の18歳の皆さんへのメッセージ

我が社は、“地元で働こう”というメッセージを伝えていますが、そのためにも外を見るべきではないかと思っています。

名古屋が好きだ、岐阜が好きだと言ってくれる学生は多いし、地元愛が強いことはとても良いこと、だからこそ外へ。

今の若者は、守られすぎている感じがあるかもしれません、外に出て戦うとまでは言いませんが、保護者の影響下に置かれない場所で、経験を積んで欲しいですね。その上で地元に戻るか、その場にとどまるか、という選択をしてもらいたいですね。

もちろん、海外という選択肢もあるかもしれません。自分なりの選択肢を広げ、様々な経験を積んでもらいたいですね。

私たちにだって、先々のことはわからないという時代。「やりたいことを見つけなさい」という風潮もあって、時に行き詰まる学生に出会います。

今は分からなければ、「今の自分が、やれること、やるべきこと」だって沢山あるはずです。
そういうことに手をつけたっていいんじゃないかって思うんですね。

私の人生では、様々な偶然と持続、ここでやめないほうがいいかな・・・という自分なりの感覚が、次の展開を生んで来たと思っています。ロジックだけではつまらないでしょう。「何と無くこっちの方が面白そう」という感覚。「創造性や思いつき」みたいな感性は持っていてもいいんじゃないかと思いますね。

実際、映画に関わりたくて、映像の仕事がしたくて就職しましたが、今は全く違う分野の仕事をしています。その都度、偶然の出会いや発見があり、今に至っています。今の仕事に大きなやりがいも感じているのが、その証でしょう。

山田哲也

出身/岐阜県岐阜市
生年月日/1966年5月22日
大学卒業後、株式会社名大社に入社。 営業部門にて、東海地区の企業に対し新卒採用、中途採用の支援を行う。 その後、営業マネージャーの傍ら、インターネット事業の責任者、大学サポートの責任者の業務を担当。 副社長を経て、2010年5月より社長として全体を統括。
FBAAファミリービジネスアドバイザー 資格認定証保持者/厚生労働省指定CDA(キャリア・ディベロップメント・アドバイザー)

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