1990年 ー 私の18歳
愛知県で生まれ県立高校普通科に進んだ私は、「みんなが大学に行くから」「大学に行かない人は社会人になれない」という風潮の中、どうしても行きたくない自分に「音大なら」と言い聞かせて受験をしました。
当時はロックバンドとブラスバンドをやっていたので、いずれは音楽の道に進んで「音楽でメシが食いたい」と思っていました。高校に入るまでも音楽はやっていたものの、作ることが好きな私は「大工になったらずっと何か作っていられる」と思っていたくらいの職業観でした。
しかしそういう不安定な仕事は周囲も許さず、「大学へ行かない」という選択肢はありえなかったので、ひとまず共通一次試験(現在のセンター試験)を受けるものの落ち、私立の大学を受けるも落ちます。そして、大学に行かせることを諦めない周囲の言葉を耳にしながら、浪人生になりそうになっていました。
3月になってある音楽ライブに行きます。ライブが終わった後に音響という仕事があることに気づき、そして東京の専門学校を見つけ、3月末に行われる第三次募集に応募し合格。4月から東京に行きました。
私の18歳から現在
音楽制作とバンドに明け暮れる日々の中で、専門学校の先生が私の存在を面白がってくれました。
そして当時、レーザーカラオケから通信カラオケになる時代に、カセットやCDの音楽をデジタルデータに置き換える仕事が大量に生まれました。
「音楽作っているなら、完コピする仕事やらないか」
そんな言葉から、手渡された音質の悪いカセットテープをコンピューターで再現できるように音符をプログラミングし、音を作って再生するという仕事を受けました。
当時1曲5万円。
1日でできれば日給5万円、
1週間でできれば週給5万円、
1ヶ月でできれば月給5万円。
つまり、「自分の能力を上げ、成果が上がれば、収入が上がる」という世界に、最初から飛び込んだのです。
そこで鍛え上げられた音楽制作と音をつくるプログラミング能力によって、その後、楽器メーカーの電子楽器開発に携わります。
そして、音楽を制作するソフトの開発や音を作る装置の開発などをしているうちにインターネットが始まりました、
これは、世界じゅうに音楽を届けることができるかもしれない
それまでやってきたことの全てが、インターネットの登場によって、新しい世界へと導かれました。
そして、私は24歳で会社を創業し、アーティスト事務所やレコード会社を経営し、日本で最初に音楽配信を始めた会社となったのです。
音楽を作る側だったからこそ、音楽を自由にどこにでも届けていきたいという気持ちが強かったことによって、私は「作り手側」から「届ける側」に変わり、激変する音楽産業のキッカケを担ることができたのかもしれません。
振り返れば18歳から起業していた私は、このベンチャー経営がきっけかで、これまでに30社ほどの起業や経営に携わることになっていったのです。
いま私が、もし18歳だったら
私が18歳の時、職業として認識していたのは、音楽家というものだけだったと思います。
ブラスバンドとロックバンドをやっていたので、音楽を演奏したり音楽を作って売るということはわかっていましたが、それ以外のことは職業として認識していなかったと思います。
「音楽でメシを食う」という言葉はとても狭く単にミュージシャンだったのかもしれまえんが、ふと見渡せば、音楽の先生だって、楽器メーカーだって、産業があればそこにあらゆる仕事が存在しているのに、
それが「職業」であり、自分がその対象になりうる
という感覚は全くなかったのでしょう。
そういう人たちだって、音楽という産業でメシを食っている人ですよね。
それに気づいたのは高校三年生が終わろうとしていた3月のこと。
ホームセンターやファーストフードなどでアルバイトは多少やっていたものの、それを仕事や職業にするという感覚もなかったので、もっといろいろな「仕事の体験」があったらもっといろいろなことを考えられたかもしれません。
それでも当時はミュージシャンになると言って同じような選択をしたかもしれませんが、少し自分がやりたい仕事の周囲の職業に早く気づけたかもしれません。
高卒からおよそ5年で会社を設立することになるわけですが、小さい頃から自分で計画を立てて実行していくことは好きだったので、そうした「得意」を活かした職業に出会えていたら、また人生も変わったかもしれません。
もし私が今18歳だったら、2年ほどITの企業で修行し、英語を多少身につけて、海外のベンチャーに就職すると思います。
スタートアップのベンチャーは本当に面白い。
現在の私は、30歳近くになってから海外のITベンチャーを仕事をするようになりましたが、もっとそれが早くて良かったんじゃないかなと思います。
世界はもっと広く、多様な選択肢があり、目に見える世界よりももっと多くの市場やチャンスがある。
いまとなってはそれが当たり前にしか思えませんが、当時はその選択をするにも「大学を卒業してからがスタートだ」という社会風潮と価値観だったように思います。
現在でもそのような風潮が残っていますが、世界中のひとと仕事をすることが当たり前になりつつある社会では、学歴など聞いたところで意味がありません。(聞いてもわからない。)
当時、現役公務員でもあった親にとっては、かなりドキドキ・ハラハラしたことでしょう。
でも、そこから10年ほどしたときに「よく自分でその道を選んだ」と言ってくれたことに、とても嬉しい気持ちになったのを覚えています。
未来の社会は誰にもわからない。
だからこそ、できるだけ早く社会と接し、とことん何かに追求して、自ら道を開いていけば、どんな未来になっても通用するスキルが身につくのではないかと思うのです。
中島 康滋
サスティナブル・ストーリー株式会社 代表取締役
1972年、愛知県名古屋市生まれ。幼少より音楽や絵画に熱中し、田畑で遊んで育つ。18歳で上京し起業。ベンチャー企業からNPOまで、およそ20社の創業、30社の経営で100を越える事業を市場に投入する。心理学や脳科学、感情能力などによる人材育成事業を通じ、仕事と人生の質が「感性」であると確信する。個人の生き方を感性から変える「ライフスタイル・イノベーション」を自ら実践するため、25年間の東京生活を卒業し帰郷。
2017年、「感性でイノベーションを共創する」をテーマに、イノベーションファクトリー株式会社 を設立。ベンチャーやソーシャルを問わず、起業家育成や事業開発など共創事業を通じ、地域と社会の未来に貢献する活動を行っている。https://kojinakashima.com/