いま、私がもし18歳だったらー「人を元気に」をモットーに、ライターから在宅医療の道へ:平田節子(医療法人かがやき 総合プロデューサー)

私の18歳ー夢をなくして、短大へー

私の高校3年間は、何かに燃えるでもなくぼーっとしながら、でも何かモヤモヤしたものでした。

実家はもともと転勤族。高校は地元の富山県を離れて、愛知の高校に通いました。高校受験の直前に父の愛知県への転勤が決まって、それまで目指していた地元の志望校の受験を断念したんです。一番行きたい学校に行けなかった私は、周りの第一志望で入学している子との間のギャップを感じてました。

※高校生時代の友人との写真(プライバシー保護の観点からぼかしを入れています)

学校は進学校でもあり、自主自立の方針で勉強には追われなくて、部活で入ってたJRC(青少年赤十字)は、部室で部員とつるんでお喋りしてるような感じ。何かに燃えるような高校生活では無かったんです。

進路選択の時期になって、悩んだ末にカウンセラーになろうって決心して、地元国公立大学の受験を決めました。当時、カウンセラーは今ほど広まっていなくて、臨床心理を学びたいって思ったら、国公立の3つの大学しかない。3年間勉強してこなかったから、進路指導の先生には「浪人を覚悟しなさい」って言われて。結局受験には落ちて、浪人する事になりました。

浪人の春に、すごく不安になったことを覚えてます。自分はどこにも所属せず、社会に認められない、何者でもないんだっていう強烈な不安でした。

志望校をもう一度受験したけれど、結果は「不合格」。当時は0か100か、みたいな感覚があって、私立の4大は受けていませんでした。開き直って入学したのが、南山短期大学の人間関係科。私は18の時点で夢は捨てたというか、なくしちゃったんです。

それからの私ー短大での気づきと、仕事の模索ー

今、考えると、本当にあの短大での2年間が良かった。そこで学んだ体験学習が、今の私の原点です。

入学したときの、教授の言葉が忘れられません。「この授業を受けたくないと思ったら、受けたくないと思った自分を大事にして出ていい。自分が何を感じているか、を大切にしてほしい。その代わり、出席日数が足りないと単位がとれないからそこは計算しろ」って。考えるより、今自分が何を感じているかを大切にしなさいって言われたんです。

そんな事言われたのは生まれて初めてで、初めは戸惑いました。何が好きなの?なんて、聞かれても自分の好きなものが言えなかったから。でもそういう事を大事にしなきゃいけないんだ、って気づいていきました。

振り返ってみると、中学の成績は結構良くて、そのまま富山で1番の進学校を目指して、「きっとそういう人生なんだな、自分」って思ってました。こうすべきだ、とかこうした方がいいとか、優等生の役割を期待されて、それに応えてきてしまったんです。でもカウンセラーを目指しだした頃から、「本当に私はこれで良いの?」って感じる自分がいて、そういう自分でも気付いてなかったようなモヤモヤを、短大での体験学習を通じて吐き出す事ができたんだと思います。

短大に入って、その中での学びはたくさんあったけど、卒業後の夢は見つかりませんでした。結局、学歴差別、男女差別がなくて、お給料がいい会社、でリクルートに入社しました。

転機は入社4年目の事。それまでの事務から、突然、制作に異動が決まったんです。深夜残業続きの部署で、それも私が結婚して三ヶ月の事でした。希望もしてないのに、これは辞めろって事か!っと一瞬思ったけど、やってみたらすごく面白かった。それがライター業と出会うきっかけになり、29歳で友人と独立しました。

人生は自分の思い通りにはならない。でも、思い通りにはならないからこそ、その先で思ってた以上の幸せを見つけるチャンスが広がります。自分の思い通りの選択だけが正しいわけじゃない。

開き直って入学した短大の授業が面白かったり、突然の異動がきっかけで天職みたいなものが見つかったり…そんな経験を若い頃にしているから、何でも強引に「こっちを選択しよう!」って思わないんです。思う通りにはいなくても、そこで頑張っていけば「思った以上」の面白い世界が拓けていくこともあるとわかりました。

それからライターの仕事を続けましたが、途中でつまずいて「本当に私はこれで良かったのかな?」って考える時期がありました。「カウンセラーになりたいんじゃなかった?」って。

通信の大学に入って社会福祉士の勉強を始めたりしたけど、途中でこれも何か違うな、って壁にぶつかります。社会福祉士っていう仕事の枠のなかで出来る事・できない事があって、私がやりたいって思っているような仕事のイメージとは違ったんです。カウンセラーって、結局は病気の人とずっと会い続けるんだよ、って知人に聞いて、それもしんどいし違うなって思って。

じゃあそもそも何故カウンセラーだったのかって考えてみたら、私は『病気の人を治したいんじゃなくて、より人を元気にしたい』、それだけなんだなって気づいたんです。だったら、ライターでも人を元気にできる。目の前の人の話を聞いて、その人が話していくなかで元気になっていったり、よりその人をクローズアップして書いていく事で、読んでいる人も元気にできる。職種にこだわる事はないんだなって、ああ、私はやりたい事が出来ているんだなってその頃気づいて、くすぶっていた夢はそこで一度消化されました。

今はまた、医療プロデューサーとして全然違う事をやっているけど、根っこは同じ。人を元気にしたい、心の元気を大切にしたいって思いは変わりません。18の頃から大事にしている事はそう変わってないのかなという気がします。昔ならうまく言語化できなくて、自分のやりたい事を知ってる職種に当てはめて「カウンセラーになるしかない!」ってなってたけど、だんだん別の仕事でもやりたい事を叶えられる事がわかってきて、上手く選択できているんだって思います。

在宅医療に関わるようになったのは、ある診療に同行したのがきっかけでした。患者さんは、末期癌にかかった40代のお母さん。そこで見たのは、苦しみも喜びも、最後まで一緒に分かち合おうとする家族の姿でした。

病院で看取り看取られるのとは全然違う。闘病するお母さん・それを支えるお父さんが、直接自分たちの生き様でもって、生きる事を子供に伝える、そして子供の中の家族像が変わっていく。何だかこの子たちは、すごい事を親たちから学んで育ってくるんだなって思ったんです。

在宅医療が進むと家族が変わるし、地域が変わるし、教育も変わる。学校教育には届け得ない教育の一つの糧のようなものを見出して、いま在宅医療に取り組んでいます。

2018年、もし私が18歳だったら

どんどん外へ、外へ、って行動するかな。留学など親元を離れる体験をしてみたり、理系も文系も関係なく、面白そうな大学を探して高校生の時から大学を覗いたりするんじゃないかな。

今なら、「大人がちゃんと見てくれる」って思えます。18の頃の私は、そういう無邪気さは持てなくて、「大人の世界に入るには大人のルールがわかっていないと駄目だから、私は入っちゃいけない」って思っていたけど、そんな事ありません。むしろ、子どもだからこそ大人の世界にずかずか入れるし、それを武器にすれば良いんです。大人は歓迎してくれますよ。

ただ、18歳当時の私のエネルギーだったら、最初の一歩が踏み出せずにモヤモヤしているかもしれません。今はネットで検索するだけで、同世代の人の色んな活躍を知る事ができます。だけど情報が多いからかえって「ああしようか、いやこうしようか」ってエネルギーが散漫になって、結局何もできない自分に情けなくなってしまうかもしれません。
でもね、長い人生の中では、そんな時期があることも大切かもしれないな、とも思います。

18歳の人へメッセージ

情報が多い中で、選択がより難しい時代になっています。だからこそ、ひとつひとつの選択をもっと気軽に考えましょう。選択するって難しいけれど、ずーっと保留してしまったら、情報だけが溜まっていって、ますます動けなくなってしまう。だから、小さな選択を積み重ねたほうが良いんです。

やりたい事が見つからなくても大丈夫。正解も不正解もないので、ひとつひとつ、今日はこう決めたけど、明日はこう決める、って選択を変えてもいい。考えすぎずに、どんな小さな事でも、直感的にこれっておもう事を、ぱんって走ってみる習慣が大事です。大人になればなるほど大きな選択をしなくてはいけないけど、その時にちゃんと決断ができるように、小さな、直感的な決断を繰り返してみましょう。一番向こう側に何があるのかわからなくても、とりあえず走ってみるんです。

すごい人になる、みたいな事よりも、自分が自分を大切にできる人生が大事だって私は思います。自分が納得して、こういう風にして人生を動いてきたな、って思えるためには、ちょっとずつでも、なにかを決めていくことができるといいですね。

平田節子

医療法人かがやき 総合在宅医療クリニック総合プロデューサー、
⼀般社団法⼈学びの応援団代表理事、株式会社ジオコス取締役

株式会社リクルートに入社し、人材開発課でリクルートの人材採用に関わった後、『B-ing』などの求⼈雑誌の制作に携わる。1993年友人と独立、のちに株式会社ジオコスに。2010年には⼀般社団法⼈まなびの応援団を設立。現在は、医療法人かがやきで総合プロデューサーとして、在宅医療の普及啓発・地域活動などを中心に「未来担当」として活動している。

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